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神田界隈かわら版
 
神田界隈地図今川橋の交差点から車の流れとは逆に東へ歩く。昭和通りをつっきり、岩本町一丁目の交差点を抜ける通りは「物通り」と呼ばれている。今でこそ少なくなったが十数年ほど前まで通りの両側は家庭物、建築物、刃物、工具物などの問屋が二百社ほど店を構えていた。今でも一本裏道に入るとそこは往時の姿と殆ど変わらない風情が残っている。
  神田、そこは江戸八百八町の中で最も古い下町。江戸城築城のため諸国から集められた腕利きの多種多様な職人たちが職別集団で居住した町。だから「江戸っ子、神田の生まれ」はステイタスだった。その名残が金物治町、紺屋町、乗物町など現存の町名に頑なに残っていることでも判る。そして、江戸名物の相次ぐ大火が、金物問屋を繁盛させていった。
鐘ひとつ 売れぬ日はなし 江戸の春 
評判を人伝えに聞いた物商人たちが毎日地方から大挙上ってきて、山のように買い漁って帰って行く。そんな光景を詠んだ句である。
  古い歴史に支えられた「物通り」。いつ頃から呼ばれるようになったかはどの文献でも定かでない。
その真ん中で南を正面に吉安がある。
 
 
 
江戸に集められた職人たち 
鍛冶職人江戸は、徳川家康が移封されてやってきたときには寒村だった。
家康はこの寒村を、軍事的機能を充実させた城下町に変える為、お膝もとの三河から大工をはじめ、他の職人たちを諸国から集めたという。
こうした職人たちは、それぞれの職ごとにまとまって住み、職人町を形成した。その名残は今でも冶町、神田紺屋町、乗物町などの地名にみることができる。出職と呼ばれる大工、屋根屋、左官、植木職など注文主のもとへ出向き仕事をするもの。指物、ろうそく屋、紺屋、そしてからなどの日用品をつくる属商の物師たちは室内で製造、販売を兼ね、彼らは居職と呼ばれた。
 
 
鍋いかけすってんぺんから煙草にし 
をハンダで修繕する仕事師が掛屋。
  江戸時代から終戦直後まで商売としてあった。リサイクル、環境にやさしい暮らしが見える。まさにマータイさんが唱える「もったいない」が当然の時代がすぐそこまであった。
「すってんぺん」とは最初の意味。
  鞴(ふいご)を持参し、道端に荷を下ろし、まずハンダを溶かす。溶けるまで時間が掛かるので仕事を始める前から一服して一軒一軒まわって修理品を山ほど集めていた。
※参考文献『川柳で読み解く「お江戸」の事情』中江克巳著
 
 
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